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【実話】映画「ブリッジ・オブ・スパイ」の真実

ブリッジ・オブ・スパイ
映画/ドラマ
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実際に起きたスパイと捕虜と弁護士の物語

東西の冷戦下、ほんの60年程前に、こんな恐ろしいことが起きていたのですね。1960年初頭、アメリカのスパイ活動をしていた事実が発覚した事件「U-2撃墜事件」、その乗務員をアメリカに連れ戻すために画策するCIA。ソ連のスパイを弁護し、CIAの依頼によりソ連のスパイとアメリカの乗務員の交換交渉の任務を任された弁護士の物語です。

ブリッジ・オブ・スパイ
ブリッジ・オブ・スパイ

世の中の混乱と人々の考え、アメリカ、ソ連、ドイツ、東西の思惑と情勢がわかる映画です。

監督はステーヴィン・スピルバーグ、脚本に第80回アカデミー賞監督賞を受賞したジョエル&イーサン・コーエン、主演はトム・ハンクスです。

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ブリッジ・オブ・スパイのスパイと捕虜

映画の登場人物は本当はどんな人物だったのでしょうか?ソ連のスパイ「アベル」が歩んだ人生はどんな人生だったのでしょうか?

ルドルフ・アベル

ブリッジ・オブ・スパイ
ルドルフ・アベル

本名はウィリアム・フィッシャー。1903年にイギリス生まれ。ロシア人政治難民の家庭で、1920年にフィッシャー一家はモスクワに戻ります。

1920年コミンテルン国際連絡課(共産主義政党の国際組織)で通訳として働き、1924年モスクワ軍管区第1電信連隊に配属、その後、労農赤軍空軍科学研究所に移りました。

1927年、反革命分子・反動分子・反体制派の摘発・抹殺を目的としていた統合国家政治局で作戦係補として採用され、欧州諸国で非合法活動を行います。1938年解雇、全連邦商工会議所、その後航空産業工場で勤務。

1941年独ソ戦勃発、破壊工作とパルチザン活動に従事する部隊に志願。ドイツ軍の占領地に派遣されたパルチザン及び諜報員のための無線手を養成する仕事に就きます。そしてこの期間に、彼の偽名となるルドルフ・I・アベルと出会います。

パルチザン活動とは

占領軍への抵抗運動や内戦・革命戦争における非正規の軍事活動のこと

1948年、非合法諜報に復帰。原子力施設で働く情報源からの情報入手のためにアメリカに派遣されます。コードネーム「マーク」が与えられ、画家を装い諜報活動を行います。1949年成果が認められ、赤旗勲章を授与されました。

1952年無線手のレイノ・ハイハネン、コードネーム「ウィック」が彼の元に派遣されますが、ウィックは精神的に不安定であり、アメリカに自首、当局にマークの存在を通報します。

1953年、新聞配達少年が偶然落とした新聞代の5セント硬貨が割れ、中から不審なマイクロフィルムが見つかったという事件があり、FBIは捜査。4年の歳月を費し、1957年にアメリカの核情報を探るスパイとして自称画家であったマークを逮捕します。

ジェームス・ドノバン

ブリッジ・オブ・スパイ
ジェームス・ドノバン

ハーバード大学出身の弁護士。1942年、科学研究開発局の共同法律顧問、1943年OSS(戦略諜報局)の法律顧問を務めた後に、1945年ドイツのニュルンベルク裁判の判事Robert H. Jacksonの助手となります。

1957年、多くの弁護士が拒否したソビエトのスパイ、ルドルフ・アベルの弁護を引き受けます。

U-2撃墜事件とフランシス・ゲーリー・パワーズ

1960年、ソ連うぃ偵察飛行していたアメリカの偵察機・ロッキード社U-2が追撃されて、偵察の事実が発覚した事件。U-2偵察機を操縦していたのがフランシス・ゲーリー・パワーズです。

フレデリック・プライヤー

ベルリン自由大学でソ連経済学を学ぶいぇーる大学の大学院生。ベルリンの壁建設中に東側の秘密警察に逮捕され、スパイ容疑で拘留されていたアメリカの学生

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ジェームス・ドノバンのその後

1962年、キューバの亡命者からピッグス湾事件の失敗による1133名の捕虜解放の交渉を依頼されます。ドノバンはキューバを訪れ、カストロと会います。ドノバンはカストロの信頼を得て、1962年12月、1113人の捕虜と食料及び薬品の交換に調印しました。そして、1963年にはキューバに勾留されていた9703人の男性、女性と子供の解放を確保しました。

ピッグス湾事件とは

1961年に在米亡命キューバ人部隊がアメリカ合衆国CIAの支援の下でグアテマラで軍事訓練の後、キューバに侵攻してフィデル・カストロ革命政権の打倒を試みた事件。失敗に終わり、114名が戦死、1189名が捕虜となる

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フランシス・ゲーリー・パワーズのその後

U-偵察機がソ連側に見つかった際には、U-2機密情報や偵察写真、部品を自爆装置を用いて処分し、自殺用毒薬で自殺するという任務がありました。しかしその任務は実行されませんでした。

そのことについてアメリカ国内では非難する世論もありますが、現実的に高度2万メートルで自爆操作が可能だったか、自殺が可能だったかは疑問なのです。

U-2偵察活動については極秘任務でしたが、1998年に極秘解除となり、偵察活動は合衆国空軍とCIAの共同作戦だったことが判明しました。

1977年、ロサンゼルス上空でテレビレポーターとしてヘリコプターに搭乗中に墜落死しています。

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原作 Strangers

冷戦下のスリリングな人質交渉のストーリーは高く評価されています。