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朝ドラ「べっぴんさん」の時代背景と登場人物のモデル

べっぴんさん
海外ドラマ
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べっぴんさん

べっぴんさんは、2016年10月~3月に放送されているNHKの連続テレビ小説です。いわゆる「朝ドラ」。そのドラマの時代背景とモデルとなった登場人物について記載します。

  • 放送 NHK総合月曜~土曜 8:00~8:15
  • 再放送 NHK総合月曜~土曜 12:45~13:00
  • 連続再放送 BSプレミアム 土曜 9:30~11:00(1週間6日分の放送がある)
べっぴんさん
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レナウン

芳根京子が演じる主人公「坂東すみれ」のモデルは、坂野惇子さんです。坂野惇子さんはレナウンの創業者佐々木八十八氏の三女です。

レナウン(企業名・坂東営業部)

1902年、佐々木八十八が大阪に衣料品を販売する「佐々木商会」を設立したことが「レナウン」の始まりです。1923年、イギリスの皇太子が訪日した際、乗船していた御召艦「超弩級戦艦RENOWN号」から「レナウン」と命名しました。

1923年、関東大震災の影響で多くの問屋が手形取引を取りやめたところで、レナウンの番頭尾上設蔵は手形取引を行ったことで百貨店の信用を得て業績が拡大します。

その後、メリヤスの国産化を計り、製造部門「レナウン・メリヤス工業株式会社」と営業部門「株式会社佐々木営業部」を設立します。1938年には東京蒲田に大規模なメリヤス工場を完成させ、その分野では日本のトップまで成長しました。1944年「レナウン・メリヤス工業株式会社」は「東京編織株式会社」に社名変更。天津や上海に海外進出も果たしますが、1944年、第二次世界大戦の影響で会社が消滅します。

戦後会社は、1944年の企業再建整備法により、江商株式会社(現・兼松)に吸収合併されます。しかし1946年に「東京編織株式会社」を再発足、1947年には佐々木八十八の意向により、尾上清が「佐々木営業部」を独立させます。

「東京編織株式会社」は「レナウン工業株式会社」に、「佐々木営業部」は「レナウン商事株式会社」に社名変更後、1968年には両社を合併し「レナウン株式会社」とします。

佐々木八十八(役名・坂東五十五 生瀬勝久)

1874年、京都で12代続いた名家、佐々木源三郎の長男として生まれ、1890年舶来雑貨商社に入社します。1902年、大阪に舶来雑貨商個人商店「佐々木営業部」を設立後、商売が軌道に乗り、神戸に住居を構えます。

1923年レナウンの商標登録を終えると同時に、会社経営を尾上設蔵に任せ、佐々木八十八は大阪市東区会議員となり、政界への道を進みます。1931年に貴族院多額納税者議員、1941年には貴族院議員54名に選ばれていました。1947年貴族院が廃止。

佐々木倆子(役名・板東はな 菅野美穂)

1883年大阪府生まれ。相愛高等女学校を卒業後、佐々木八十八と結婚。三男三女を儲けます。三女が子供服ブランド「ファミリア」を創業する佐々木惇子(坂野惇子)です。

尾上設蔵(役名・野上正蔵 名倉潤)

1987年兵庫県生まれ、銀行家を目指していましたが「佐々木営業部」に入社。26歳の時には佐々木営業部の番頭に就き、佐々木八十八の右腕として活躍します。1940年死去。

尾上清(役名・野上潔 高良健吾)

1911年大阪府に生まれ、帝塚山学院小学部、住吉中学、慶應義塾高等部と進学。学生の時にすでに喫茶店を経営し経営者としての頭角を現しています。大学進学に失敗し、慶應義塾高等部を退学し、1933年「佐々木営業部」に入社します。1936年には常務に昇進しています。

実際は1940年に伊勢丹二代目社長小菅丹治の長女と結婚します。

1944年企業再建整備法により、江商株式会社(現・兼松)に吸収合併される時に、尾上清は江商の社長駒村資正に「佐々木営業部」を破格の条件で売却します。尾上清は江商の衣料部長に就任。

闇市の件で逮捕

衣料部長として働く一方で、「有信実業」を設立。隠匿物資を正規の販売ルートで請負い、闇市に流し、それで得た資金でレナウン・メリヤス工場を再稼働させます。1946年、隠匿物資の摘発で警察に逮捕されてしまいます。

1947年、尾上清は江商から「佐々木営業部」」を独立させます。佐々木八十八の意向で、社長は尾上清が就任。有信実業は衣類小売部門「レナウンサービスステーション」と名を変え、後にメンズブランド「van」を発足させます。

住友銀行、三菱銀行から資金を調達し、大阪にビルを購入。「レナウンサービスステーション」「田中千代デザインルーム」「高級クラブ」を開きます。

田中千代と洋裁ブーム

尾上清の妹が田中千代の洋裁教室に通っていたことから、戦前より佐々木営業部で子供服のデザインを担当していました。戦時中のモンペの反動から、戦後には洋裁ブームが起こっており、田中千代は佐々木営業部主催のファッションショーを開催することを提案。大成功を収めることとなります。

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佐々木惇子(役名・坂東すみれ 芳根京子)

佐々木惇子は、1918年神戸で佐々木八十八の三女として生まれます。当時「佐々木営業部」のあった大阪は開発で騒がしく、それを住居として好まなかったため、佐々木八十八家族は別荘の神戸に住んでいました。小学校の通学に付き人がいた惇子は、周りから「別荘の子」と言われ、それが嫌で、「佐々木営業部」の派手な服を好みませんでした。

甲南高等女学校 田村枝津子との出会い

1931年、甲南高等女学校へ入学し、ファミリアの創業メンバーである田村枝津子と出会います。

惇子の夫は、甲南高等女学校の時に知り合った坂野通夫(役名・田中紀夫 永山絢斗)です。卒業後、東京女学館高等科の聴講生となり、板野通夫は京都帝国大学に進学します。1940年板野通夫が大学を卒業し、大阪商船に就職すると、二人は結婚します。

板野惇子とベビーナース

1942年長女光子が生まれ、イギリスのオーツ夫人(クリスティーナ)の紹介で外国人専門のベビーナース大ヶ瀬久子(役名・小野明美 谷村美月)より、西洋式育児法を学びます。

働く決意

1945年、神戸大空襲により、神戸の自宅は被災し、終戦を迎えます。日本政府はインフレを解消するために、預金封鎖、財産税、新円切替を実施。これにより、惇子 は預金を下ろせなくなってしまいます。

この時、江商に勤めていた幼馴染みの尾上清に「お嬢さんではいけない。自分で仕事をし生きて行く、一労働者になりなさい」と説かれ、働く決意をします。

代金をもらわず商売

1946年、夫である板野通夫がすみれ丸で帰国しますが、預金の引き出し制限のために、貧しい生活が続きます。惇子は洋裁の仕事を始めますが、お嬢様育ちだったことから代金を請求できず、お礼は現物で頂いていた状態でした。

この頃、軽井沢の別荘を手放すことになり、荷物の引き取りに行きます。戦時中に疎開していたことから、別荘にはいくらかの荷物が残っていて、その中には外国製の生地や糸、ハイヒールなどがありました。

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ベビーショップの創業

ファミリアの創業メンバーは4人でした。ファミリアの手編み部門の基礎を築いた村井ミヨ子、ファミリアの手芸部門を担当した田村枝津子、

田村枝津子(役名・多田良子 百田夏菜子)

1919年、枝津子は榎並家の次女として神戸に生まれます。榎並家は質屋を営む旧家で、父、榎並充造は坂東式調帯合資会社(バンドー化学)や内外護膜合資会社などの創業者で、ゴム産業の基礎を築いた人物です。後にファミリアの創業の際、銀行の保証も引き受けます。

1931年甲南高等女学院に進学し、佐々木(坂野)惇子と知り合い、親友となります。

小学校3年生の時にアメリカ人形の絵を描き、毎日新聞社の児童画展で入賞、高等女学院時代には女性のための絵画研究所、赤艸社女子絵画研究所に通います。また、木川章子、田中千代、立体的な手芸の師である北島政子ら手芸や縫製を学びます。

1940年、繊維商社「田村駒」の創業者の次男、田村寛次郎(役名・小澤勝二 田中要次)と結婚し、枝津子もベビーナースより西洋式育児法を学んでいました。

戦後、姉の子供の古着をもらい、それを型紙にして、自分の子供の服を作っていました。

田村光子

1907年生まれで田村駒治郎の長女であり、枝津子の義姉です。1929年に安田信託に勤務していた田村陽と結婚します。

洋裁家、木川章子の門下生であり、戦後すぐに洋裁の仕事をして、商品を販売していました。

村井ミヨ子(役名・田坂君枝 土村芳)

1923年、ミヨ子は東京に生まれます。へその緒が首に巻き付き仮死状態で生まれ、未熟児でした。父、中井栄三郎は日綿実業(総合商社双日)で勤務し、東京、海外、大阪と転々とします。ミヨ子は芦屋の精道小学校に入学しますが風邪と肺炎を繰り返していました。松陰高等女学院、松陰専攻科と進みます。

1941年、洋裁を習うために芦屋から神戸に通っていた時に板野惇子と出会います。

実際のミヨ子の結婚は親の薦めでした。ミヨ子は結婚を拒否しますが説得され、1944年、大阪の旧家村井完一(役名・村田昭一 平岡祐太)と結婚します。1947年、板野惇子に洋裁を習い始めます。

ハイヒール売りに「モトヤ靴店」へ(企業名・あさや靴店)

板野惇子は別荘に残っていたハイヒールを売るために「モトヤ靴店」を訪れます。店主の元田蓮(役名・浅田茂男 市村正親)は、自分が板野惇子の嫁入り道具として作ったハイールを売らないように懇願します。その時、板野惇子は元田蓮に子供の写真を見せます。板野惇子のバックと写真ケースを見た元田蓮は、モトヤ靴店で作った物を売ったらどうかと提案します。

ベビーショップ・モトヤ

板野惇子は元田蓮との話を、親友、田村枝津子に相談します。枝津子は、洋裁で商売の経験のある義姉、田村光子に話を持ち掛けます。そして板野惇子、田村枝津子、田村光子の3人で創業することとなります。

はじめは手芸店を開く予定でしたが、佐々木八十八や板野通夫の助言により、これまでに学んだ西洋式育児法を生かした特別な商品を作るべビーショップを開くことにしました。

1948年、モトヤ靴店の店内に「ベビーショップ モトヤ」をオープンさせました。

商品は売れるが利益が出ない

戦後の日本は、日本で作られた国産品が粗悪品で、外国製が良い品でした。ベビーショップモトヤの商品は外国製の良質な生地や糸を使い、丁寧に仕上げていたので、商品は飛ぶように売れますが、お嬢様育ちの板野惇子らは高い値段が付けれらずにいました。

それを知ったモトヤ靴店の店主、元田蓮は板野惇子らに商売の基本を教えます。また、夫らも帳簿の付け方などを指導するようになります。

ファミリアへ

1949年、ベビーショップモトヤはモトヤ靴店の近隣の店舗が空いたために、そこに独立します。

その頃、レナウンサービスステーションは神戸に移転していました。しかし、「佐々木営業部」が小売業に進出することで小売店より批判が集まり、レナウンサービスステーションは撤退することを余儀なくされます。

そこで、板野通夫はベビーショップモトヤを会社組織にして、レナウンサービスステーション跡で商売することを板野惇子に勧めます。

そして、1950年、ベビーショップ ファミリアが誕生しました。

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ベビーショップ ファミリア

阪急百貨店との取引

阪急百貨店から百貨店での販売の申込みがあります。阪急のマークに付け替えて納品し、阪急百貨店で販売するという内容でした。価格も好条件を提示されますが、「ファミリア」の名前が使われないということで、板野惇子は断ります。

そこで阪急百貨店から「阪急ファミリアグループ」という名前を提案され、百貨店と取引することとなります。

しかし、阪急ファミリアグループのオープン直前に、店員が商品を粗雑に扱っているのを見て、板野惇子は「取引を中止したい、売るならば自分たちの手で売りたい」と言い出します。

つまり条件の悪い、当時では異例であった委託販売(インショップ)での契約となり、1951年「阪急ファミリアグループ」をオープンさせました。

商品の生産が間に合わない

ショーケース2台でオープンしますが、接客も良く、良質の商品であったことから、阪急百貨店の販売予測以上の売れ行きで、ショーケースの半分が空になってしまいます。板野惇子はショーケースを1台に減らすと言い出します。

板野惇子は阪急百貨店の社長 清水雅に呼ばれ、「あなた方の仕事の仕方は立派。ショーケースを減らさず、2台から5台へ増やすように売る工夫をしてくれないか。阪急百貨店を代表するグループになるでしょう」と清水雅に言われ、その言葉に感激します。

不正経理

ファミリアを設立した時に社長は元田蓮が務めていました。不正経理が発覚したことをキッカケに、元田蓮はファミリアに打ち込める人物が社長に就くべきだと辞任します。

1952年板野通夫は佐々木営業部を退社し、社長は不在のまま、ファミリアの取締役に就きます。

西洋の育児用品や子供用食器の普及

1952年、阪急百貨店が「はんきゅう こどもショー」を開催します。一般の人々が目にすることがなかった西洋の育児品を、アメリカ領事館の好意で借りることができ展示、大成功を収めます。

1953年の子供ショーでは日本食器(ノリタケ)で子供用の食器を2万個も発注し販売します。板野惇子が発注した2万個という数字は当時のファミリアの売り上げからすると桁違いでしたが、後にこれが子供用食器の普及に繋がるのです。

ベビーブームと子供服展

1954年、東京高島屋がファミリアに子供服展の開催を要請、大成功を収めます。ファミリアの創業メンバー田村光子の義父は高島屋の創業者であり、社長は田村光子の親戚でした。高島屋はファミリアに出店の契約を申し込みますが、店員の商品の扱いに問題があったために断ります。

伊勢丹東京本店での子供服店も大成功に終わります。この時板野惇子から提示された計画書に驚き、伊勢丹の山中かんはファミリアから学ぶことが多いと感じ、部下にファミリアのレポートを書かせます。これが伊勢丹の販売テキストの基礎になります。

東京進出

阪急の東京進出の話があり、ファミリアは1956年に数寄屋橋阪急1階に東京店を出店します。高島屋、伊勢丹での子供展は大盛況でしたが、出店後、客足は伸びずショックを受けます。しかし徐々に売り上げが伸び、東京でも成功を収めます。

TVの普及と皇室ブランド

1959年皇后美智子様が第1子をご懐妊した際に、百貨店各社は出産用品を納品することとなり、高島屋はファミリアの商品を納品します。これがキッカケとなり、ファミリアは皇室ブランドとなります。

1970年、板野光子(板野惇子の長女)のアメリカ留学の影響で、スヌーピーの販売権を獲得し、日本で販売、人気商品となります。

ファミリア 量産化

各百貨店にファミリアコーナーができましたが、注文に納品が間に合わず、商品不足の状態でした。生産ラインの開発に元レナウンの松方真を招きます。

そして、服は1年間着られれば良いとするニーズに応えた「プロパーゾーン部門」と「オリジナル部門」を作り、量産化に成功します。しかし、従来の生産方法を望む声もあり、縫い手15人の「ブテック部門」も設置します。

1966年にはファミリアコーナーから直営店に切り替え、1971年には神戸の三菱信託銀行ビルの7階に本社を移転、1974年には8階にファミリアの生産部門の主要メンバーを呼び寄せ、企画・生産・管理の一元管理を整えます。

※参考 //nobunaga-oda.com/